ここ最近の事

ここ最近はマハラジやエックハルトの言葉に触れる機会が多い。
両者から自分自身の探求を勇気付ける言葉をいただいている。
これからも、私は社会生活を送るために必要な事は必要な事として取り組んでいく事と思う。

ただ、社会生活の中で行っていく事が自分自身の幸福や平穏とは何ら関係のないものという意識が根底にある。
現状、その事を言い聞かせている側面がありはすれども、日々深まる実感として感じているものである。

幸・不幸や快楽と苦痛を感じている『私』の感覚というものは不安定なもので、常に変化し続けているものであって、 絶対的なものではないという確信がある。案外、人間の感覚というのは適当なものだと思う。誰かしらそういう所感は あるのではないかとも思う。ただ、敢えて口にするほどの事ではないと思って話題に挙げる事は少ないだけであろう。

『私の心』『私の体』は常に変化し続けるものである。

いつかは変化し、そして失われてしまう物を慈しむのは大切な事だとは思うけれど、
それらに依存する事はとても虚しい事のように感じる。
慈しみはすれども、依存はせず、ただ変化するそれらを受け止める事が自分にできる事だと思う。

と、最近はそんな風に日常を観ながら過ごしている。

透明なブロックのようなもの。

ブロックというといかにも障害物のようだけど実際のブロックは、障害物然りとしたものではないように思う。 簡単に『これは障害だ』『これはブロックだ』と認識できるものは障害ですらないとさえ思う。

行動する事、考える事、全て意識に挙がっているのに決断や判断が行われない物事が自分にはある。 何かの拍子にブロックが外れると、そんな風に意識にあるのに素通りしてしまっている事を自覚する時もあれば、 ただ自然な行動として物事にリンクしていくような事がある。

ブロックと書いたけれど、それは多分ブロックではなくて、何かいろいろな事に気を散らして注意散漫な時に、 目の前に見える事をスルーしてしまう事の方が当てはまるような気がするので、きっと気を散らす要因が一つ減って その分スルーしていた事に気づくだけなのかもしれない。

スピリチュアルな堂々巡り

色々言葉にしようと思うのだけど、頭に思い浮かべただけで文章にしようという衝動が薄れてしまう。 ただ、一つ最近強く思った事がある。いくらスピリチュアルなワークをやろうが、幸せな未来をイメージしようが 現実に一歩足を踏み出さない限り、現実は何も変化しないという事を強く思った。

スピリチュアルに依存しているうちは、自分にとってのタブー(触れたくない現実)を巧妙に避けながら、 スピリチュアルなワークに取り組む結果になると思う。ワークをこなす達成感や満足感を得る事はできるし、 その事によってまるで現実が変化しているような錯覚はするけれども、実際は堂々巡りしているだけである。 そして、堂々巡りする中で、だんだんと自分の世界が閉塞していくのである。

自由になりたいという思いに囚われるあまり、その考えこそが自分自身を不自由にしている。 その事を現実の中で体験していくうちに、自分はどうやら堂々巡りをしている、という事実に気が付いた。

「その事に気が付いたは良いが、それではどうしたら良いのだろうか?」 と自問する日々である。

睡眠不足の時の気分の変化

先週末は趣味の集まりで飲み会があったので随分お酒を飲んだ。それだけでなく、帰宅してから久々に深夜3時頃まで夜更かしをした。 その翌日は午前10時頃に起きたは良いが、頭がぼーっとしてしまい、せっかくの好天にも関わらず自宅でごろごろしてしまった。

飲み会の後から週明けの今日の夕方頃にかけて気分がとても沈んでいた。大げさに言って世界に絶望するような感覚に陥ってしまい、複雑な事も全く考えられない状態になっていた。一度気分が落ち込むと、これといってやる予定がないと区切りがないので際限なくおかしな気分の中でうじうじしているように思う。

こういった気分の変化を、自分自身の問題と捉えてしまい深刻に悩んでいたけれども、自分自身の性格や人間性云々とは別に不規則な生活週間や寝不足によっても気分の不調を引き起こすと様々な方が言及されていたなぁとふと思い出した。

ついでに言うと、自分にはゲームもあまり相性が良くないようだ。

誰が思考しているのか?

書籍や他者の話を通してこの話題について知識を得る機会は多々あったが、最近は自分自身で確認する事を実践している。 実際に思考を観察していて、「私が考える、私が思考する」という感覚が若干薄れてきた。

思考というのは自分が考えているわけではなく、これまでの人生経験で意識的に(あるいは無意識的に) 得てきた体験や知識を元にして勝手に浮かんでくるものという風に感じる。 思考や概念考えそのものの中で思考や感情の動きが起きているように見える。

感情的な反応も思考も全て自分が能動的に起こしているのではなく、 それそのものがその中で勝手に反応を起こしていて、自分はそれを単に見ているだけ。

自分の中に起こる一つ一つの思考や反応をつぶさに捉えていくと、 それは自分自身の意志とは関係なしに起きている事が理解できる。 思考をコントロールしようとすると、思考はリアルさを増していくように思う。 コントロールしようとしなければ、どうだろう。

風が吹いてるだけだ。

私は思考していないし、思考の持ち主ですらない。 ただ、目立つ人を街中で見かけたときに、目が相手に釘付けになっているようなものだ。

腹痛は雑念を吹き飛ばす(笑)

今朝、通勤の電車で腹痛に見舞われた。はじめのうちは職場の最寄駅までは我慢しようと考えていたが、通勤区間の半ばで我慢できなくなり途中下車してお手洗いに駆け込んだ。
それから20分以上はトイレにこもっていたと思うが、よく覚えていない。我慢したのが悪かったのか、用を足した後いつまでも鈍痛がお腹に残り、結局は会社を早退してしまった。腹痛になったら、余計な事を考えて我慢せずにすぐに対処した方があとあとが楽だなと思った。ここ何年も通勤中に腹痛になる事がなかったので油断していた感もある。

さておき、その痛みの渦中に置かれた時、自分の置かれている社会的な状態だとか、悟りだとか探求だとかそういった物は頭から一切抜け落ちていた。ましてや、自分が幸福であるとかその反対で不幸だとかそういった事など考えてすらいなかった。その時、不安もなにもなく、ただただ痛みと吐き気に見舞われてのたうちまわっていただけなのだった。

普段の自分がどれだけ無意味な思考を弄んでいるのかというのが、今日の腹痛でなんとなく理解できたような気がする。腹痛は苦しかったし、こんな事何度も体験したくないと思ったけれど、痛みの最中にあった時、その瞬間に良い意味でも悪い意味でも集中していたように思う。それだけでなく、体が楽で痛みがないというのはそれだけで嬉しく、心地の良い事なのだなとしみじみと実感した。

安心して苦しめというメッセージ

自我が欲するような出来事は、あなたには一生やってこないでしょう。 あなたは護られている。だから、安心して苦しみなさい。 抑圧する事なく、怒りや喜びの全てを生きなさい。 ブログにその事を書きなさい

ほんの5分弱瞑想をしている間に、そのようなメッセージがやってきた。 自分はもう人生に疲れ果てていて、いつでもこの世から自分の事を消して欲しいという想いが常に意識の片隅にある。けれども、このメッセージを読む限り神さまというのは自分を簡単には消してくれないようだ。

自己実現や願望の達成、社会的な成長という事から早々にドロップアウトしてしまった自分は、これから何をしていけば良いのか、そしてこれから自分がどうなるのか全く想像できない。

不幸か幸福かを判断するところから離れた瞬間に

最近、自宅にいる時は歌ったり踊ったりしている。歯を磨きながらくるくると回っていたり、歌を口ずさんだり、ボイスパーカッションをしたり、トランペットや鳥の鳴き声や猫の真似をしている。 衝動は唐突に起きて、それに取り組むと衝動もすぐにスッと消えてなくなってしまう事が多いけれど、そうでない事も多々有る。 その瞬間の自分が、幸福なのか不幸なのかは分からない。ただ、少なくともその瞬間は、自分が幸福か不幸かについては 考えていないような気がする。

うまくは表現できないのだけれど、自分にとっての安息というのは、幸福か不幸か、という思考から離れている時がそれなのかもしれない。幸福と不幸というのは高低差みたいなもので、ジェットコースターのように高い・低いを行ったり来たりする事自体に苦しさを感じているのかもしれない。

被害者意識

スピリチュアルな人の隠し持つ被害者意識を目の当たりにして、 自分は積極的にこちらの人と関わるのをやめようと思うようになった。

スピリチュアルのモノサシを使って、気に食わない相手の事を 下に見る態度に、なんだかありとあらゆるスピリチュアルな物事は その人の人間性には何の寄与もしないのだなと思った。 被害者意識の強い人がスピリチュアルと結びつくと、自分自身の 被害者意識にスピリチュアルという概念で蓋をしてしまうのだろうなと思った。

それは、なんていうか、永遠の眠りのようだなと思う。

それを受け入れてしまったら、なかなかそれがおかしかったとしても 一度受け入れてしまったら自分から取り外すのは容易ではない気がする。

思考を止める

思考が止まったと感じたその時でさえ、思考は止まっていない。 言語化する行為をしていないだけで、思考の活動は止まっていない。 言語化する事だけが思考する事ではなく、非言語でも常に思考が働いている。 言語のおしゃべりを止めてみても、いまだ多くの思考が発生するのである。 思考というより、意識という感じかな。まぁ、どちらにしろ「私が行為を成している」 という主体性のようなものは常にあると思う。

思考が止まったと感じるような体験があると、探求者やスピリチュアル? の一部の方はその事を嬉々として語りたがるけれど、実際のところ 自我が大喜びする体験など自我や思考に都合の良いイメージでしかない。

自我が喜ぶ『思考が止まった』体験というのは、実際に思考が止まっている というよりも、自我の定義した『思考が止まった時のイメージ』に合致した状況を 指しているのであって、思考が止まっているわけじゃないという事。

思考には勝手に思考させておけば良いんです。