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誰が思考しているのか?

書籍や他者の話を通してこの話題について知識を得る機会は多々あったが、最近は自分自身で確認する事を実践している。 実際に思考を観察していて、「私が考える、私が思考する」という感覚が若干薄れてきた。

思考というのは自分が考えているわけではなく、これまでの人生経験で意識的に(あるいは無意識的に) 得てきた体験や知識を元にして勝手に浮かんでくるものという風に感じる。 思考や概念考えそのものの中で思考や感情の動きが起きているように見える。

感情的な反応も思考も全て自分が能動的に起こしているのではなく、 それそのものがその中で勝手に反応を起こしていて、自分はそれを単に見ているだけ。

自分の中に起こる一つ一つの思考や反応をつぶさに捉えていくと、 それは自分自身の意志とは関係なしに起きている事が理解できる。 思考をコントロールしようとすると、思考はリアルさを増していくように思う。 コントロールしようとしなければ、どうだろう。

風が吹いてるだけだ。

私は思考していないし、思考の持ち主ですらない。 ただ、目立つ人を街中で見かけたときに、目が相手に釘付けになっているようなものだ。

腹痛は雑念を吹き飛ばす(笑)

今朝、通勤の電車で腹痛に見舞われた。はじめのうちは職場の最寄駅までは我慢しようと考えていたが、通勤区間の半ばで我慢できなくなり途中下車してお手洗いに駆け込んだ。
それから20分以上はトイレにこもっていたと思うが、よく覚えていない。我慢したのが悪かったのか、用を足した後いつまでも鈍痛がお腹に残り、結局は会社を早退してしまった。腹痛になったら、余計な事を考えて我慢せずにすぐに対処した方があとあとが楽だなと思った。ここ何年も通勤中に腹痛になる事がなかったので油断していた感もある。

さておき、その痛みの渦中に置かれた時、自分の置かれている社会的な状態だとか、悟りだとか探求だとかそういった物は頭から一切抜け落ちていた。ましてや、自分が幸福であるとかその反対で不幸だとかそういった事など考えてすらいなかった。その時、不安もなにもなく、ただただ痛みと吐き気に見舞われてのたうちまわっていただけなのだった。

普段の自分がどれだけ無意味な思考を弄んでいるのかというのが、今日の腹痛でなんとなく理解できたような気がする。腹痛は苦しかったし、こんな事何度も体験したくないと思ったけれど、痛みの最中にあった時、その瞬間に良い意味でも悪い意味でも集中していたように思う。それだけでなく、体が楽で痛みがないというのはそれだけで嬉しく、心地の良い事なのだなとしみじみと実感した。

安心して苦しめというメッセージ

自我が欲するような出来事は、あなたには一生やってこないでしょう。 あなたは護られている。だから、安心して苦しみなさい。 抑圧する事なく、怒りや喜びの全てを生きなさい。 ブログにその事を書きなさい

ほんの5分弱瞑想をしている間に、そのようなメッセージがやってきた。 自分はもう人生に疲れ果てていて、いつでもこの世から自分の事を消して欲しいという想いが常に意識の片隅にある。けれども、このメッセージを読む限り神さまというのは自分を簡単には消してくれないようだ。

自己実現や願望の達成、社会的な成長という事から早々にドロップアウトしてしまった自分は、これから何をしていけば良いのか、そしてこれから自分がどうなるのか全く想像できない。

不幸か幸福かを判断するところから離れた瞬間に

最近、自宅にいる時は歌ったり踊ったりしている。歯を磨きながらくるくると回っていたり、歌を口ずさんだり、ボイスパーカッションをしたり、トランペットや鳥の鳴き声や猫の真似をしている。 衝動は唐突に起きて、それに取り組むと衝動もすぐにスッと消えてなくなってしまう事が多いけれど、そうでない事も多々有る。 その瞬間の自分が、幸福なのか不幸なのかは分からない。ただ、少なくともその瞬間は、自分が幸福か不幸かについては 考えていないような気がする。

うまくは表現できないのだけれど、自分にとっての安息というのは、幸福か不幸か、という思考から離れている時がそれなのかもしれない。幸福と不幸というのは高低差みたいなもので、ジェットコースターのように高い・低いを行ったり来たりする事自体に苦しさを感じているのかもしれない。

被害者意識

スピリチュアルな人の隠し持つ被害者意識を目の当たりにして、 自分は積極的にこちらの人と関わるのをやめようと思うようになった。

スピリチュアルのモノサシを使って、気に食わない相手の事を 下に見る態度に、なんだかありとあらゆるスピリチュアルな物事は その人の人間性には何の寄与もしないのだなと思った。 被害者意識の強い人がスピリチュアルと結びつくと、自分自身の 被害者意識にスピリチュアルという概念で蓋をしてしまうのだろうなと思った。

それは、なんていうか、永遠の眠りのようだなと思う。

それを受け入れてしまったら、なかなかそれがおかしかったとしても 一度受け入れてしまったら自分から取り外すのは容易ではない気がする。

思考を止める

思考が止まったと感じたその時でさえ、思考は止まっていない。 言語化する行為をしていないだけで、思考の活動は止まっていない。 言語化する事だけが思考する事ではなく、非言語でも常に思考が働いている。 言語のおしゃべりを止めてみても、いまだ多くの思考が発生するのである。 思考というより、意識という感じかな。まぁ、どちらにしろ「私が行為を成している」 という主体性のようなものは常にあると思う。

思考が止まったと感じるような体験があると、探求者やスピリチュアル? の一部の方はその事を嬉々として語りたがるけれど、実際のところ 自我が大喜びする体験など自我や思考に都合の良いイメージでしかない。

自我が喜ぶ『思考が止まった』体験というのは、実際に思考が止まっている というよりも、自我の定義した『思考が止まった時のイメージ』に合致した状況を 指しているのであって、思考が止まっているわけじゃないという事。

思考には勝手に思考させておけば良いんです。

いきのこり●ぼくら

今日出会った音楽は、青葉市子さんの『いきのこり●ぼくら』。

どういった経緯でこの曲を知ったかというと、SoundCloudでこの音源を加工して、 自作曲としてアップしているユーザーを見つけた事がきっかけだった。

初めてそれを聴いた時、妙に音程が高く、テンポもぶれているように感じその事に違和感を感じ、 ピッチを上げるような加工でもしてるのかなと思って、それなら元の曲はどんなだろう? と思い、タイトルで検索をかけてみたらたまたま元の曲である『いきのこり●ぼくら』 というタイトルを発見する事ができた。

ギターとボーカルのシンプルな曲ながらも素敵な曲。 そよ風のような歌声が魅力的だ。

これまでの振り返り

何をやってもグズでしょうもない自分は、がむしゃらに物事に取り組む事ができなくなっていた。 そういった経緯から自分は引き寄せの法則をはじめとした自己啓発に興味を持つようになった。 願望実現といえば自己啓発の定番のテーマだけれど、実際のところ自己啓発に関心を持つ人の多くは 願望実現そのものよりも、自分の心をどうにかしたいという意識が強いのではないかと思う。 さておき、引き寄せの法則を実践していく中で、どことなくこれは仏教やその他の宗教で語られている事と似ているなぁと思いながら、その時できる最善をつくして実践と読書を行っていた。

それから、引き寄せの法則について取り組む内、願望実現そのものに対する欲は次第に薄れていった。 それを実現して心から安心できるのだろうか? それを得られなければ、永遠に欠乏感を抱えて生きなければいけないのだろうか? そもそも、変わらない現実とのギャップにストレスを感じてしまうし、これは何かがおかしいと感じるようになった。何よりも書籍に書かれている事のパラドックスに意識が向かうようになった。

それから一時期、瞑想や座禅に関心を持つようになり、完全に現実逃避的な思考から体外離脱に 取り組んで、おかしな幻覚や体験をした。瞑想によって、心を鎮めるというより、 瞑想によって、変なビジョンを見たり不思議体験をしたいという意識がその時は強かった。 でも、それも次第に興味が薄れていった。自然と体外離脱やビジョンを見るために、何時間も 意味もなく横になったり、瞑想をする事が馬鹿らしくなってしまったのだ。

そして、内観に取り組むようになる。内観に取り組む過程で、スピリチュアルな ワークショップやヒーリングにも何度か足を運んだ。同じような分野で取り組んでいる 他者と繋がりたいと考えた事も動機の一つだった。そこでは様々な出会いがあった。 知り合った方の取り組む姿を見る事で自分自身の学びにもなったし、純粋に他者との交流が楽しかった。もちろん、楽しい事ばかりではなかったけれど。ちなみに、その手の界隈では相手を不安や恐怖に陥れて依存させるよう仕向ける人間も多々いるという事だけれども、自分の場合はむしろ逆で依存的な関係性を戒める方との出会いが多かった。

それから数年内観に取り組みつつ、世間的な願望実現よりも、自己探求・内面の観察に関心が向かうようになった。まだその時点では新たな知識や内観に取り組む方々のコミュニティを求めていたように思うが、段々とそういったコミュニティに関わる事、内観に取り組む他の方と新たに交流する事への興味は薄れていった。自己探求とは極めて個人的な取り組みだ。他者との交流ではなく、自分自身との深い交流が必要な事に思う。師匠という程ではないけれど、私が信頼する人の言葉を受け止める度に何故かその想いが強くなっていったように思う。 そうこうするうちに段々と、内観や自己探求・スピリチュアル関連の方々の発言や行動に違和感を感じるようになり、一挙種一頭に苛立ちを感じる事を自覚するようになった。そこには様々な思考があった。嫉妬であったり、軽蔑であったり、自分には理解できないという疎外感であったり色々思うところがあった。様々な感情とともに他者のあり方を見て、最終的にはその人にとっての真実はそうなのかもしれないと思うようになった。ただ、それは自分が求めるものではないと思い至った。

まだ心から安心できる日はやってこない。

自分を支えてくれると考えていた地面がなくなって、底なしの穴に落下を続けているような絶望的な感覚の中で日々を生きている。知識や物や、人間関係は尊い。けれど、自分自身の平穏とはなんら関係がないのだ。その事を自覚してホッとする自分を自覚する事ができる。 とにかく、自分は自分自身の真実を突き止めたい。とはいえ、真実ってなぁに? というような状態ではあるけれど。

私は。

私はみじめだ。私は無能だ。私は日本人だ。私は長男だ。私はエンジニアだけど、アルバイターだ。 私はフルート奏者だ。私は自称作曲家だ。私は口下手だ。私は人付き合いが苦手だ。私は怖がりだ。私は面倒くさがりやだ。私は短気だ。私は自分の事を哀れに思うのだ。

自分の人生は自分でどうにかしなければならないのだ。自分の人生を他者のせいにはしたくないのだ。 他人のせいではないのだ。親のせいでもないのだ。国のせいでもないのだ。ただ、自分が選んできた結果がここにあるのだ。

良い事であれ悪い事であれ、嘘はつけないのだ。どれだけ良い人になろうと思っても、自分の悪い部分を隠そうとしても、現実は自分の弱さとか愚かさを臆面もなく突きつけてくるのだ。月並みな言葉だけど、現実は己の心を映し出す鏡なのだ。私は綺麗な世界だけ見ていたいのだ、こんな世界と自分を認めたくはないのだ。 それでも、ここには否定しきれない何かが沢山あるのだ。

素直に言って、今の自分は幸せではないのだ。良い年こいた大人が、こんな事を表明する事には抵抗があるのだ。でも、苦しくて私はどうしたら良いのか途方に暮れているのだ。自己啓発や宗教、オカルト、だけでなく趣味や人間関係に於いても救いはないのだ。ドラッグもお酒も一時的に感覚を麻痺させるだけで、すぐに日常に戻らなければならないのだ。一時的な気休めを得るために、その後に苦しい思いをするのは正直割に合わないのだ。そんな事は、本当に死にたくなった時の景気付け位の気休めの効果しかないのだ。 「あたなに救いを与えましょう」と言ってくる人にホイホイついていってろくな目にあった人の話を聞かないのだ。掴まれる物があるならつかまりたいのだ。縋れるものがあるのならすがりたいのだ。 でも、そんなものどこにもないのだ。

ネットを見ていると、幸せそうな人のブログや発言にイラついたり、傷ついたりするのだ。そんな人と自分の立場を比較して、「自分はなんてみじめなのだろう」と思って死にたくなる事が多々あるのだ。 でも、そういう人の一連の発言や投稿の中に綻びを見てしまうのだ。悲しいのだ。本当に大事で愛しい事の毎日なら、ネットに気を散らしながらやっている場合ではないのだ。自分の生活が幸せである事を敢えてアピールする必要すらないのだ。そんなの自分みたいな暇人がやる事なのだ。

また一週間頑張りましょうね。みんな。自分。

ロシア旅行の写真・その6

モスクワ旅行して一番衝撃を受けたのが、救世主キリスト大聖堂です。
内部は写真撮影禁止なので外側の写真しかありませんが、尖塔の内側の高い天井に描かれた宗教画がとても美しく、荘厳な雰囲気に浸りました。

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